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Luke's journal

ルーク遠征日誌

ホンジュラス 1999

ルーク遠征日誌 バハ編ベリーズ編 /ホンジュラス編   /ニカラグア編 /コスタリカ編


6月26日 ”シャル ウィ ダンス??”ガリフナダンスパーティー

8月21日”虫よけ、鎮痛剤、プラスチックシートは必需品”


"Baila Conmigo" Garifuna Festival Dancing

1999年6月26日 "シャルウィーダンス??" ガリフナダンスパーティ
(ホンジュラス サンボクリークにて)

”わたしと踊らない?”と誘われ、思い切ってやってみることにした。思っていたほど下手なできではなかったものの、やっぱり、うまくはおどれない。この、ラ・プンタと呼ばれるダンスなしに、ガリフナ文化を語ることは出来ない。そのリズム、ボディランゲージはアフリカの伝統舞踊と深くつながっている。以前はパーティや葬式、そして神霊儀式の時に踊られていたが、今ではどんな社交の場でもこのダンスが見られるようになった。

一刻も早くダンスフロアから逃げたかったわけは、ぷるぷるに太った中年のダンスパートナーではあまり気合いがはいらず、リズムにものれなかったからと言うのも嘘ではないが、真相はそれだけではない。実際、音楽は覚えやすく、わたしは一生懸命、それに体を合わせようとしたのだが…。本当のところは、普通の体格の男が、巨大なカリビアンの肝っ玉母さん相手に踊らされるのはどうも調子が悪い。いくら必死にストレッチをしたり、練習しても、彼らのように腰を前や後ろに振ることは絶対に出来ないのだから。彼らは上半身と足は殆ど動かさず、胴と離れているかのように腰だけを平行に動かす。信じられない!
しかし、上手下手はともかく、とても楽しかった。そして、楽しむこ事こそがゴールだということを思い出した。まわりの人達はわたしがパーティーに参加しただけで、嬉しかったようだし、特にわたしに何か芸を期待しているようでもなかった。

プンタダンスは一見簡単そうに見えた。音楽がなりはじめると彼らはすぐにリラックスして踊り出す。ディスコ以外では主に、女性が踊り、男性はドラムをたたく。まあ、ディスコでも大抵女性の方がよりエネルギッシュに踊っているが。上半身は殆ど動かさず、時折、廻るために腕を上げる。そして、足はドラムのリズムに合わせて小刻みに動き、上手いダンサーのヒップはそれ自体が生きているかのように上下縦横に動く。そして女性のスカートはその動きが強調されるようなデザインになっている。

私たちはサンボクリークの漁村にある文化センターみたいな所にいた。最初の一時間は3人の男達がドラムをたたいてパフォーマンスを見せる。高い音を出す二つのドラムが早いリズムで鳴っている間、深く低い音を出すドラムは又別のリズムを叩き出す。男が巻き貝を吹くと、小さな男の子が横でひょうたんのマラカスを振る。みんな汗で光っていた。4人の女性の踊りは抜群にうまい。その中に一人20代の美しい女性がいて、彼女はその豊かな黒髪を後ろに束ね、ポニーテールしていた。その女性の母は”いたこ”―あまりぴったりくる言葉ではないが、巫女のように、霊と交信したり、先祖とコミュニケーションをとって人々に助言を与える助けをしている。(これはガリフナの伝統宗教である)同じ聖なる血がその娘にも流れていると村の人は言う。音楽が緊張を高めて行くにつれ、彼女もそれに追いつくように、目を白黒させ、やがてリズムの中で倒れ、震え、転がりまわっていたが、その動きに彼女自身の意識は全く感じられなかった。このパフォーマンスのあと、彼女はダンスフロアーから運ばれていった。

女達は踊っている間、祈りの歌を歌う。大抵そのうちの一人が指揮をとって彼女のリードに残りがついてくる。それは符が滝から落ちるような、シャープとフラットが混ざり合い、高い音から低い音に転げ落ちていく様なメロディーだった。とてもこの音を音楽的に表現することはわたしには出来ないが、その強烈なサウンドは部屋を埋め尽くしていた。ドラムが体を震えさせ、足は単純でちょっと間抜けなかんじのステップを自然に踏む。歌が直接音楽を頭に運んでくる。腕は流れるようなモーションでゆれ、コーラスの最後の音に合わせその動きは小さくなる。ドラムとコーラスは完璧な対になっていた。

その短い夜は驚くべきダンスパフォーマンスで締めくくられた。村の伝説の男、ガリフナのマイケルジャクソンといわれる男がいるらしい。果たして、その伝説の男とは、ジャズ、ヒップホップミュージシャンのハービーハンコック似の痩せた若者だった。どうやらアメリカに住んでいたことがあるらしい。それは彼のダンスからよくわかった。ドラマーはテンポをあげてブレイクダンスとラ・プンタを一つにまとめ上げ、信じられないくらいエネルギッシュなスタイルに変えてしまった。会場は興奮、歓喜、叫び声と歌がリズムに乗って一つになっていた。彼のダンスは、300年も前から伝わるサントビンセントとアフリカのリズムと踊り、80年代にNYで生まれたストリートビートとボディランゲージが絡み合ってできた奇妙だが、違和感のない文化の融合物とでも言えばいいのだろうか。村人の顔からはさっきまでの笑みは消え、困惑した表情で顔を見合わせていた。

訳:長谷川 祐希  訳者プロフィール


1999年8月21日
ラセイバからオモアへ”虫よけ、鎮痛剤、プラスチックシートは必需品”

所見その1;
カヤックから離れて二ヶ月、再び長距離のパドル、悪い立地でのキャンプに体を慣れさせるのは楽じゃない。わがままな自分がもう一人の自分に、最初の2,3日はゆっくりのんびり進んで、片手の指を使って数えられるだけのkmで進行距離を考えさせる。「前にできたんだから、またやってみせる、畜生!」ハイレベルのアスリート達が長いオフの後、再びトレーニングをはじめるときと似ている。あんなに長い間トレーニングしてきたのに体はこんなに早く忘れてしまうなんて!

所見その2;
母なる自然は同情なんて持ち合わせていない。苦しいときには、だれかにわめいてみたくなったり、大言壮語を吐きたくなるものだ。たとえそれが全然役に立たなくても。みんな聞いてくれてありがとう。

オモアからプエルトコルテス(中央アメリカで一番栄えている港)への初日は、2時間ほど湾のまわりを軽くパドルする。(血みどろのガッツを期待していた人達、がっかりさせてゴメン)その上、町の西側のビーチに、友達のそのまた友達が持っている別荘があったので、屋根付きの豪華キャンプサイトまでついていた。
目覚まし時計が3時半になったとき、空はまだ稲妻と雷に引き裂かれていた。私たちは寝袋から出もせずに、今日はオフにすることにきめた。この”体力回復デー”は、サンペドロという、ポップカルチャーとソウルフード(米国南部の黒人の伝統的な料理)の町で過ごした。それでも、バスに一時間も乗れば田舎へ出てしまう。そう、未開の土地で戦っているどんなに素晴らしい戦士でも、文化帝国主義の力に屈してしまうことだってある。…ということで、私たちは恥ずかしながら、リトルシーザーのピザを腹に詰め込んで、マチネーの前をウロウロした。
充電完了。翌日は6時半に起きて、カルロスの好奇心一杯の視線をあとに出発した。彼はオフシーズンの間、ここの別荘に住んでいる管理人だ。彼も以前、ボートであちこち旅行したらしく、実際世界中回っていた。だが、カスク2000ほどの規模のものはしていない。彼は、あちこちでもうかなり見慣れた意味不明の微笑みと表情で、私たちを見送ってくれた。

プエルトコルテスの南西20キロはきつかった。一休みできるような所も涼める陰もなく、ただ平凡な細長い海岸が続いているだけだった。猛暑と体の痛み…どちらもこの時の状態を表現するには生やさしい言葉だ。
砂に突き刺した流木の間に防水シートを広げ、日除けを作った。確かに、それは日陰には違いないが、全く涼しくない。朝の涼しい風は完全に止まり、薄っぺらなプラスチックシートをじりじりと太陽が照りつけ、下のよどんだ空気を益々熱くした。この日の午後、ひたすら水を飲みながらすすみ、私たちは日焼けではなく蒸し焼けになった。
早く休んで遅く起き、翌日7時半には次の予定地まで軽く11キロをパドルする。

ちょうど10時前に、私たちはダイヤモンドラグーンと呼ばれる青々とした素晴らしいラグーンについた。このような名前には単なるシンボル以外に不吉な前触れを意味することがよくある。皮肉にもこのケースがまさにそれだった。私たちは前日以上に苦しむことになる。陰のある場所で昼寝と休息、それだけが私たちの欲しいものだったのに…。
ダイヤモンドラグーンとは宝石のように美しい場所という意味で名付けられたわけではないという恐ろしいことがわかった。そこは青々とした浅瀬に生息する虫の王国だったのだ。私たちは防虫剤を振りかけて100パーセント完全武装で、蒸し暑い木の陰にすわったのだが、その木の蔓を覆っていた蚊やサンドフライやその他諸々の虫の大群が縦横に飛び回り襲ってきた。虫よけ用のメッシュと長ズボンを通して刺してくる虫と戦い、この惨めな状況を罵っていると、ホエザルが私たちの様子をあざ笑うかのようにむかいにある木のてっぺんから吠えていた。

3時間後、マイアミの小さな村ガリフナの海岸に上がる。海をミコスラグーンから切り離す狭い砂峡は自然のままの状態だった。ここからバスのアクセスはなく、時々車が凸凹の汚い道路を通るだけだ。だから、ほかの村で見るような加工食品のゴミやコマーシャリズムもなく自然が残されているのだろう。私たちは朝、バナナと揚げ魚を食べながら、村の年寄りとおしゃべりをした後、さらに2時間暑さの中でテラに向かってパドルする。30キロのパドルに睡眠不足で、私たちは海沿いの安ホテルに着くと、ベッドに倒れ込んだ。

テラから出て2,3日は、事がうまく運んだ。1日20キロほどパドルして、実のなったココナツの木陰のあるいいスポットを見つけることができた。虫も少なくなったし涼しい風もあったし、そのうえ雨が降らなかったので夜も快適だった。目覚ましで起こされ空をみると、西にスコールが見えた。夜明け頃に、ガリフナの漁師達が丸木舟の帆をいっぱいに張り、一列に並んで村へ急いでいる姿を見た。風と波を利用しているらしい。私たちも急いで荷物をまとめ、強く打ちつける雨の中、波乗りに出発する。途中何度か波をかぶってびしょぬれになったものの、風と波が私たちの行きたい方向へ向いていたので、とりあえず寒さは無視し、頭を下げひたすらパドルする。4時間後に風は強い横風に変わり、弱まった波がカヤックの横に当たっては白波になった。

32キロのパドルの後、体の痛みと疲労を引きずりながら海岸に上がり、私たちはその日泊まる場所を探そうと思った。…が、二人の紳士がこのプランを変えた。マウンテンパトロールの男二人が犬を連れ、わざと見えるように弾一杯の銃を持ち、私たちに"mas adelante"、”もっと先で”キャンプしろと言ってきたのだ。その辺はただの農園のようだが何でそんなに厳重に警備しているのかとても気になった。おそらく、ホンデュラスの最近の果樹園ではバナナ以外の物も植えているのだろう。仕方なく更に1時間半パドルする。私の肩は殆ど力を使い果たし、痛みだけが残っていた。ココナッツの木陰がある海岸にたどり着き、ようやく長い一日が終わった。晩ご飯は新たに私が発明したハーブトルティーヤパンブレッドとフライドビーンズに少しのアドビル(鎮痛剤)で、それらがなんとか私たちの疲れを癒してくれた。

夜明け前の午前4時に始まるこんなバカな毎日には基礎栄養素が入ったしっかりした朝食がかかせない。私たちはそれを実行するべく、1食分のクッキー1袋とイブプロフェン(鎮痛剤)をとった。1時間半後、私たちは次の食事の用意をするため少し止まり、急いでオレンジパウンドケーキミックスをこねて焼いたのを腹に入れて、またカヤックに戻った。その後4時間、灼熱の中を目的地のラセイバまで向かった。30キロをひたすらパドルした疲労と肩の痛みで今日も一日が終わった。

これだけの不平不満を読んで、私たちの頑固なまでの努力を不思議に思ったり、楽しくなさそうと思ったりしているかもしれない。だが、我慢を強いられるスポーツというのは人を惹きつける何かがある。それは、直観、精神的、肉体的困難の中での奮闘とその後の達成感が組み合わさって、まるで麻薬のようなカクテルを作り出す。
ラセイバのパン屋に入って一休みしながらこの10日間を振り返り、肩の痛み、疲れ切った体、傷だらけの足でお互いを見た。そして、私たちが目にした美しい物や楽しかったことについて話しあった。注文した物をきれいに平らげた後、ジョンフィリップを見ると、何も言わなくてももう分かる。長いシエスタ前のウォームアップにバナナシェイクとパイを二人文注文することに何のためらいもなかった。

August 21, Omoa to La Ceiba: "Bug Spray, Advil and a Rain Fly, The Essentials"

訳:長谷川 祐希  訳者プロフィールLuke Shullenberger  ルーク・シュレンバーガー

更新日:2000年6月3日

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