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Jean-Philippe's journal

ジョンフィリップ遠征日誌

ホンジュラス 1999

ジョンフィリップ遠征日誌 バハ編  /ベリーズ編     /ホンジュラス編   /ニカラグア編 /コスタリカ編


5月29日 ホンジュラスへ

6月 グアテマラへ

8月 9日〜14日 オモアからラ・セイバヘ

9月3日陸の孤島、モスキチアへ飛ぶ

9月3〜8日 パラシオスからクリへ運河を通りラグーンをパドル

9月10〜16日 ラスマリアス第1週目 (前編)

9月10〜16日 ラスマリアス第1週目 (後編)

9月25日 特訓、丸太カヌー”ピパンテ”


1999年5月29日 ホンジュラスへ

僕達は夜明け前に起きだし、まだ暗い中カヤックに荷物を積み込んだ。昨夜のサンドフライ(蚊より小さく、とても痛い)の攻撃は、最悪。ルークの顔を見ると、何か変だ。寝ている時に口をモスキート・ネットにつけていたらしく、ネットの上からサンドフライに唇を刺され上下両方の唇が腫れ上がっている。まさに”タラコ唇”!

いつものことだが、予定の時刻を30分遅れて僕達は出発した。数分間波のパターンを読もうと海を見ていたが、暗すぎて波の崩れが見えない。こうなったら、全力で突進だ。波が激しくビーチに叩きつけられている。波の様子をうかがいながら重いカヤック(約100kgの荷を積んである。)を海へ引っ張っていかなければならなかった。ようやくカヤックに乗り込み、スプレーカバーをセットした時にはすでにシーソックスの中に半分以上水が入っていた。すぐさま闇の中をパドルし始めたとたん、顔に波がおもいっきりぶつかってきた。とにかくパドルし続け、サーフゾーン(磯波が立つ場所)は楽に越えられた。そこでルークを待っている間、僕はシーソックスに溜まっていた水をビルジポンプで汲み上げていた。
「海に出てから5分経っても互いがそろわない場合は、ビーチへ引き返す。」と、出発前からルークと話がついていた。僕達のどちらかが波を超えられなかったり、転覆した場合に備えた決まりだ。5分後、僕は目印になる緊急ライトを点灯させ、更に1分ほどルークを待った。すると、「オーイ、どこだー!」ルークの声がした。「ここだー、ライトが見えるかー!」と、僕も大声で答えた。間もなくして僕達は無事再会、ホンジュラス目指して湾を横断し始めた。

7km以上パドルしたはずなのに、後ろからはまだビーチに叩きつけられる波の音が聞こえていた。朝日で辺りが明るくなり始めた頃、ルークが僕を呼びとめた。「俺の唇、どうなってる?」ルークには悪かったが、僕は彼を見るなり吹き出した。唇がひどく腫れあがり、まるで漫画にでも出てきそうな顔になっていたからだ。
7時15分、僕達は穏やかなオモア湾に入った。約26kmを4時間以内でパドルしたのだから、かなり順調に来られたといっていい。ついにホンジュラス到着だ。

ルークがビーチの近くにあるゲストハウスを探しに行ったが、あったのはたったの一軒で選ぶ余地無し。僕達は部屋にカヤックや荷物を運びいれ、入国管理事務所を探しに出た。公式な場所では、見苦しくない服装でのぞむのが一般的なルールだろうが、グアテマラで出国スタンプを押されたのは4日前。空白の4日間を言い訳しやすくするためには「ようやく着いたんだ!」と強調できる今のずぶぬれ、よれよれ姿で行った方がいいだろうと僕達は考えた。
しかし、行ってみると事務所には”ビーチで仕事中”というサインがかかっていた。「他の街まで行かないと・・・」と人に言われたが、何とかなるだろうと思い僕達は部屋に戻った。それからシャワーを浴び、朝食を腹いっぱい食べて、サウナのような部屋で僕達は気を失ったように眠った。
結局、2日後の31日に僕達は再度入国管理事務所に出向いた。そして入国スタンプは、無事パスポートに押されたのだった。

英語テキスト: 5/29/99 - Crossing to Honduras
訳:西山 晴美

 


1999年6月 グアテマラへ

オモアで知り合ったローリーにカヤックや荷物を預かってもらい、僕はスペイン語を習うためグアテマラへ向かった。評判の良い語学学校がケツァルテナンゴという標高の高い街にある。その間ルークは、ウチラ島へ行きスキューバダイビングのライセンスを取ったり、ガリフナ族の祭りに参加することになっている。
ここで、グアテマラでの体験を少し紹介しよう。

ホンジュラスからグアテマラの国境を越えるのは、まさに冒険だった。急な下り坂のカーブを曲がる度に、バスのタイヤがものすごい音をたてた。センターラインを超えて左へ右へ揺れるバスの中では、乗客が転げないようにと必死につかまっている。僕はグアテマラの国境を見ずに、この下り坂で旅の最後を迎えるだろうと考えたくらいだった。
グアテマラシティーに無事到着。印象は最悪、今まで行った街の中でも最低だった。マシンガンやショットガンを持ち、防弾チョッキで身を固めたガードマンがほとんどのレストランや店の前に立っている。夕方、まだ早い時間でも張り詰めた空気が街を包んでいくのが分かる。通りから人々の姿が消えていくと、僕も同じように9時前にはホテルに入った。防犯のためなのは分かるが、鉄格子で囲まれているそのホテルはまるで刑務所のようだった。

僕はシェラの街でスペイン語クラスを申し込んでから、すぐに山間にあるトドス・サントスという街へ行こうと思っていた。そのためには、グアテマラシティーからシェラ行の朝一番のバスに乗らなければならない。次の日の朝4時半、僕はまだ暗い街の中をバスターミナルへと向かっていた。ガードマンはもういない。道で寝ている者や、通りをうろついている連中がいる。これほど不安になったことはない。バスターミナルに着いてみると、なんとまだ閉まっていた。おまけに6時までバスがない。ホテルで聞いた話とは全然違う。
「何やってんだ。夜に1人で道を歩くなんて、頭がおかしいんじゃないか。」前にあったガソリンスタンドの若い男が僕に話し掛けてきた。「死にたいのか?ここは夜1人で歩くところじゃない。旅行者だろ?次のバスターミナルまで、襲われずに着けるはずないぞ。連れていってやる。」彼はそう言って、10分くらい離れた違うバスターミナルまで僕を連れていってくれた。
途中、たむろしている連中と何回かすれ違う度に、その若い男は素早く僕をリードした。「絶対止まらず、速度も落とすな。いつでも速く歩くんだ。奴らは後をつけるんじゃなくて、たいてい突然襲うんだ。」と彼は言った。バスターミナルに着くと、彼は僕が乗るバスも教えてくれた。僕は彼にお礼を言い、数ドル手渡した。そしてバスの座席に座り、ほっと一息ついたのと同時に、ここ以上に嫌な街はないんじゃないかと思った。

定員数の2倍の乗客を詰め込んだバスで5時間、シェラの街に到着した。ここのICAというスペイン語学校に申し込みをした。僕は月曜日からのレッスンを受けると言い残すと、すぐさま違うバスに飛び乗った。最後に乗り換えたバスは、山のでこぼこ道をゆっくりと登り始めた。乗客は皆、色鮮やかな伝統衣裳を着ている。小さな村トドスサントスでバスを降りると、かわいい子供達が待っていた。僕は挨拶をかわし、その子供達の案内で安宿へと向かった。
ここの土曜日の市場は本当にカラフルだった。人々は親切だし、村の静けさも気に入った。小さな小屋にあったサウナに入りながら、ここにはまた戻ってこなければと考えていた。

その後2週間、僕はICAでスペイン語を勉強した。学校も教師達も文句無しで、僕はそこで多くのことを学び、特に文法はかなり上達した。しかしそれだけではなく、グアテマラの歴史についても知ることが出来た。僕の先生だったネリーは、先住民の権利を擁護するために法律の勉強をしていた。彼自身も先住民の血を半分受け継いでいる。マリオという先生は、社会心理学の論文で先住民の難民問題を取り上げた。平和協定が結ばれた後、逃亡先のメキシコからグアテマラに戻ってきた先住民についてだ。他にも同じように先住民を支える活動をしている人々と会うことができた。この語学学校自体、再植林をはじめとして、ストリートチルドレンや先住民を援助する独自の活動を行っている。
どういうわけか、僕はこの小さな街シェラがとても好きになった。街を包むエネルギーや人々の暖かみが感じられ、すごく居心地がいい。だだし天気はその反対で、寒くて雨ばかり降っている。おかげで最後の週は風邪でずっと寝込んでいた。

数週間後、僕はまたうんざりするほどの長い時間バスにゆられ、ホンジュラスへ戻ってきた。そしてプエルトコルテツで、ルークやリチャードと無事再会できた。人権侵害問題や犯罪は、たしかにグアテマラで起こっている。しかし、心配していた交通機関での犯罪は取り越し苦労だったし、僕が行った街の殆どは安全で、人々もとても親切だった。

英語テキスト: June 99 - Kayak storing in Omoa - Honduras. Visit and Spanish Studying in Guatemala
訳:西山 晴美

 


1999年8月9日から14日 オモアからラ・セイバヘ (前半)

ルークと僕は、カヤックやその他のギアが置いてあるオモアへ戻った。僕のカヤックフレームはホンジュラス到着寸前で壊れてしまっていた。以前ルークが彼のフレームを直した時と同じように、僕もフレームにガムテープをぐるぐる巻いて修理した。荷物を全て詰めなおし、防水バックの中に密封した。更にチャックにワックスを、金属部にはオイルを塗り、すべての防水ケースの金具やカメラなどにもオイルを塗った。焼き立てのパンをフードパックに詰め、ようやくラ・セイバに向けての準備が完了した。

月曜日早朝。ビーチにカヤックとすべての荷物を運び、僕達は出発した。第1日目なので、パドルするのはここからプエルトコルテツまでの短い距離にとどめておいた。ありがたいことに、プエルトコルテツでリチャードの友人がカヤックをしまっておく場所を提供してくれた。僕達は荷物やカヤックをそこへ置かせてもらい、リチャードの家へ行った。彼には感謝しっぱなしだ。夕方、僕達はキャンプをするためビーチに戻ってきた。夜中、嵐とひどい雷、稲光のおかげでほとんど寝ることが出来なかった。朝3時、目覚ましがなったものの、ものすごい雷がいたるところで鳴り響いている。僕達は目覚ましを4時半にリセットし、また眠りに就いた。しかし一時間半経っても、状況は変わりそうになかった。ここが人里離れた無人の浜だったら、僕達は起きて嵐の中をパドルし始めていたかもしれない。でもここはプエルトコルテツ、安心してカヤックを保管できる場所もある。結局僕達は今日はここにいて、のんびりすることにした。

水曜日、朝。僕達は再びパドルし始めた。波のうねりや向かい風と4時間以上も闘い、ようやく無人の浜に着いた。しかし太陽の強い日差しを防ぐ場所がここには全くない。僕は、嵐で流されてきたような流木の中から支柱になりそうな木の棒を4本集め、ルークが料理をしている間、砂浜に穴を掘って棒をたてた。棒が埋まっている根元に水をかけ、しっかり固めて倒れないようにして、プラスチックタープを地面から1mの高さにつけた。昼間、僕達はずっとその下で横になっていた。タープで直射日光は防げたものの、温度はまるでサウナと同じだ。暑さから来るエネルギーの消耗、気力の低下で水を飲むこと意外何もしたくない。うだるような暑さで寝ることさえも出来なかった。砂浜に横になりながら、僕達はぼーっとしていた。うつらうつらと半分寝ているような寝ていないような、幻覚が見えてもおかしくない、そんな状態だった。日が沈んでから、ようやく僕達は少し動き始めた。暑さもだんだんおさまってくると、これから出発(午後8時くらい)出来るんじゃないかという話になった。サル岬の少し手前にすごくきれいなラグーンがあるとリチャードから聞いていた。ここからパドルしても遠くはないし、僕達はそこへ行くことにした。

しかし、まさかそこが遠征出発以来最悪のキャンプ地になろうとは思いもしなかった。
たしかにリチャードの言う通り、そのラグーナ・ディアマンテ(ダイアモンド・ラグーン)は本当に美しかった。が、その美しさに反して、まるで拷問のようなサンドフライの大攻撃が僕達を待っていた。僕達はそこを”プンタ・インセクタ(虫岬)”と呼んでいる。地図に載っているダイアモンド・ラグーンという名は絶対改名するべきだ。詳しくはルークの遠征日誌を読んで欲しい(翻訳中)。とにかく僕達にとって、まさに悪夢の一夜だった。何の苦もなく僕達は次の朝4時に起きた。このプンタ・インセクタを離れられて、本当にせいせいした。 

英語テキスト:August 99 - Omoa to La Ceiba: Omoa to Tela (8/9 to 8/14)

 


1999年9月3日陸の孤島、モスキチアへ飛ぶ

目覚ましが鳴る時刻(4時半)の4時間前だというのに、まだ僕達はすべての荷物を詰めこむのに悪戦苦闘していた。モスキチア出発の2日前くらいに、カヤックやキャンピング・ギアを詰めておけばよかった。予定が狂った場合、計画の見直しをしなければならないが、そのことさえもすっかり忘れてしまうこともある。

ラ・セイバの街に着いてから数日間はホームぺージを更新したり、最近の記録を入力したりと、コンピュータの仕事ばかりしていた。その後僕達は、泊まっていたホテルから Ecoaventuras の2階にある宿の相部屋に移った。Ecoaventurasはモスキートコーストで一番評判のいいツアー会社だ。
僕達は出発前に、ジョージに会いたいと思っていた。ジョージはエコツアーの会社を設立し、このモスキートコースト一帯のベスト・ガイドの1人として有名な男だ。僕の友人で
「 La Mosquitia 」 の著者デレック・ペアレントが「モスキチアへ行く前に、絶対に会っておいたほうがいい。」と薦めてくれたほどだ。そして街の誰もがそれを認めているようだった。やはり彼には会っておかなければならない。しかしジョージは今、ナショナル・ジオグラフィックのチームをガイドしていて、プラタノ川保護区に行っている。戻ってくるのは8月25日の予定だった。
彼を待つ間、僕達は様々な人と会い、モスキチアをはじめとして周辺に住む先住民に関する話を聞いたりして忙しい日々を送っていた。その結果、初めてジョージと会うまでに、遠征準備段階で数ヶ月もかかって調べたモスキチアの情報より、はるかにたくさんのことを知ることができた。そして最後に、遠征中に貴重な発見が出来るようにと、ジョージが更に情報をくれた。
ジョージはモスキチア出身、ホンジュラスとニカラグアの国境を流れるココ川の近くで生まれた。ラテンアメリカとインディオ、それぞれの世界を出来るだけ生かそうと手を尽くし、彼の名は皆に知られるようになった。「皆といっても、僕の方は皆の名前を覚えてないよ。」と、ジョージは言う。彼が覚えているのは様々な種類の動物や植物の名前だ。そして、その動植物がいかに環境にとって重要な役割を担っているかや、それらをいかに利用すればいいかも彼は知っている。
ジョージは小柄な身体全体にエネルギーが満ちているような男だった。そして笑顔もいい。言葉だけではお互いをよく知るのに不十分と考えてか、彼は僕達をカングレジャル川のラフティングに誘ってくれた。class III 、IV rapids の、すごい急流を下るラフティングにはナショナルジオグラフィックのレポーターも一緒だった。僕達はずぶぬれになりながら、時には落差が1m以上もある早瀬をジャンプした。スリルがあって本当に楽しかった。
そして出発前夜(昨日の夜)、僕達はナショナルジオグラフィックのトムとロイ、そして荷物を預かってもらっていたケントと一緒に食事をしに行った。(実は、ケントにはこの日まで全然連絡が取れず、ようやく最後の夜に会うことが出来たのだ。)こんなかんじの一週間だったから、荷物を詰める暇もなかった。

朝4時45分。2回目の目覚ましがなり、仕方なく頭を起こした。タクシーの運転手がドアをノックしたようだ。僕達はホテルのマネージャーにタクシーを手配してもらっていた。運転手にあの大荷物を見せる前に値段の交渉をしておかなければならない。まず僕が、2つくらいのドライバックを持って交渉しに行った。
オンボロタクシーに荷物を満載し、僕達は出発した。がたがたと振動の絶えないタクシーは最高速度40キロで進み、なんとか空港までたどり着いた。大きいうえに重い僕達の荷物は、全部合わせて135kg近くにもなった。しかし手荷物は2人で45kgまで。計り方が間違っているに違いないと僕達は笑顔でしらばっくれた。その結果、50ドルの追加料金の代わりに10ドルだけ払い、小さな双発式の軽飛行機に乗り込んだ。

45分後、僕達はパラシオスに到着した。飛行機はサッカー場のど真ん中に着陸。そこではチップ目当ての子供達が荷物運びに一生懸命働いていた。空港のチーフで一番近い宿泊所のオーナー、ドン・フェリックスと挨拶をかわした後、僕達は近くにいた子供達と遊び、彼らにチップを払って荷物運びを手伝ってもらった。
パラシオスはすごく感じのいい所だった。人は親切、村も静かで景色も美しい。ユニフォームとマシンガンで身を固めた男達さえ目に付かなければ、ここは理想のパラダイスにふさわしい。後でドン・フェリックスは、このパラシオスで犯罪や争いが起こったことはないと話してくれた。ユニフォーム姿の彼らは、ドラッグの取り締まりをするためにいるという。最近、モスキチアの様々な場所でドラッグが問題になってきているのだ。
僕達はホテルにチェックインした。扇風機からの心地よい風が部屋をめぐり、大きい窓からはラグーンが一望できる。美味しい食事の後、僕達は半日寝て過ごした。とうとうモスキチアに来た。装備輸送がなんといっても一番の心配事だった。が、案ずるより生むが安し、意外にもすんなりと通った。とにかく先週から不足していたのは睡眠だ。これから始まる冒険のためにも、間に合わせなければ・・・。

英語テキスト:3/9/99 - First Flight into La Moskitia

 


999年9月3〜8日   パラシオスからクリへ 運河を通りラグーンをパドル

モスキチア遠征の出発地点となるパラシオスから、プラプラヤというホンジュラスで一番南にあるガリフナ族の村までをまずパドルした。そこで、伝統的なプンタダンスの夕べを見たり、カメの保護活動を進めている女性と話す機会を得た。このプラプラヤにはまた戻ってきたい。しかし今はまず、目的地のラスマリアスへと先を急ぎたい。
プラプラヤから僕達は運河とラグーンの内側をパドルした。長く続く砂州の内陸にミスキト族のコミュニティーが多く集まっている。ライスタという名の開拓された土地へ行く途中、ルークを待つために小さな村に止まった。カヤックがよほど珍しかったらしく、ミスキト族の人達がどこからともなく集まってきた。彼らがあまりにも珍しがるので、穏やかな水の所で数人の村人に、カヤックの試し乗りをさせてあげた。子供達もかわるがわるカヤックに乗り、自分の技術を試していた。彼らのほとんどが丸太のカヌーを操っているから、素人ではない。カヤック初挑戦でも簡単だったに違いない。

その後僕達はライスタに到着し、エディ・ボデンと会った。彼はアメリカの平和部隊が最初に作ったバタフライ・ファームの責任者で、エコツーリズムプロジェクトの昆虫学者でもある。僕達は彼とすぐに親しくなった。会ったばかりでも信頼出来る奴、彼は正にそんな男だ。エディには会っておけと、モスキチアで皆に言われた訳が分かる。また戻ってくると確信して、僕達はライスタを後にした。ラセイバの入国管理事務所でビザを更新する間、ここにカヤックを置かせてもらうことになりそうだ。

イバンスラグーンを抜け、人の手で切り開かれたような運河をパドルする。マングローブの林や牧草地を横切るその運河を後にすると、小さいラグーンにたどり着いた。いくつかの村があり、クリ族も住んでいる。そこで休憩も兼ねて、ミスキト族の子供達4,5人ずつをカヤックの上に乗せてあげた。それから僕達はプラタノ川に続く最後の運河を目指しパドルし始めた。1.5kmくらいしかないこの運河は幅が狭い上に、大きい木々の根の間では流れが渦を巻いていた。頭上を覆う木々の枝や葉があまりにも密集していて、その中を通る僕達はまるで緑のトンネルにいるようだった。そこら中に野生の花が咲き乱れ、つるが地面につくほど長く垂れ下がっている。木々のわずかな隙間から光が射し込み、”ワンダーランド”不思議の国さながらの雰囲気を作り出していた。狭い運河を慎重にパドルしなければならないのに、ついその美しさに見取れ、カヤックが何度も根にぶつかった。やっとプラタノ川に到着したけれど、この夢のような場所を後にしたことを少し後悔した。

プラタノ川を数日パドルすれば、ラスマイアスに到着する。河口の村、バハプラタノからの出発だ。

英語テキスト:3-8/9/99 Palacios to Kuri, Paddling through canals and inside lagoons

 


1999年9月10〜16日 ラスマリアス第1週目 (前編)

ラスマリアスは、先住民ぺチの人々が最初に作った村だ。それから何年にもわたり、多くのミスキトスの男達がぺチの女性と結婚しにここへ移って来たため、非常に交じり合った文化を持っている。そしてラスマリアスはぺチのコミュニティー(村)の最後の一つとして数えられ、ここプラタノ生物圏保護区にあるたった一つの村でもある。
この地は中央アメリカでも有数の熱帯雨林で、生息する動植物も多様性に富み、観光客がトレッキングをしによくやってくる。彼らはこの村のガイドを雇い、1日から5日間くらいのトレッキングコースを選ぶ。村のエコツアープロジェクトは、MOPAWIがスポンサーとなって進められている。 MOPAWI は自然保護を活動の中心とするホンジュラスで最大のNGOだ。僕達がトレッキングやエコツアー目当てじゃないと知ると、村の人は皆驚いていた。

僕達がラスマリアスに来たのはぺクの文化や過去と現在のライフスタイルを知るためで、とにかく村のお年寄りやぺチ語を話せる人、ぺチの文化を守り続ける人達に会いたかった。言葉(言語)はその文化をも伝えると信じている。しかし、ぺチ語をきちんと話せる人が20人にも満たないこの村の場合、どうやって言葉(文化)を残していけるだろうか。失われつつある文化を身をもって体験し、記録を残すためにここへ来たという僕達の目的がよりはっきりする。

初めの1週間は、人と話をすることに終始した。エコツーリズムの責任者マーティンや、1990年にここの生物圏区に移ってきた家族の4兄弟と会った。ぺクの文化や伝統を守ろうする人々の中で、最も活動的なのがベルナルドとフランシスコ兄弟だった。彼らはラスマリアスから4時間ほど川を上ったところに住み、ベルナルドはそこに新しくゲストハウスを建てた。僕達は、次の週から彼の家族と一緒にそこで生活をすることにした。
ラスマリアスでは村の長老格ドン・ディビオと彼の姉と会い、二人の話を夢中になって聞いた。話は多岐にわたり、数日間で村の歴史や伝統的ライフスタイル、森に宿るスピリットについて聞くことが出来た。そして、遺跡として残る”シウダーブランカ”という街にまつわる有名な伝説も詳しく聞いた。この伝説と関係が深い一族の人達から話を聞くことは初めてだった。
シウダーブランカの衰退期に、自分達の祖父がそこで生まれ育ったのだと彼らは言った。彼らにとって伝説は歴史的事実だ。インタビューにはビデオカメラも使った。彼らが、僕達や世界の人々にぺチの文化を話し聞かせることにとても興味を持ってくれたからだ。

その後僕達はドン・ディビオの息子ドン・ユーベンスに会い、ラスマイアスにいる間ほとんど彼と一緒に行動した。ドン・ユーベンスは、政府から認められたぺチ族の組織で代表を務めている。彼は、ベルナルドやフランシスコ、村の住民と共に、ぺチの文化や伝統、言葉を残していこうと活動し、ホンジュラスにおける先住民の権利のためにも奔走している。
ドン・ユーベンスは50歳代だがエネルギーにあふれ、本当にすごい男だ。熱帯林での彼の体力と仕事ぶりに僕達は完全に負け、話すほうでも(おしゃべりな)僕をしのぐ勢いだった。(これには参った・・・。)
ある日、屋根に葺くための”スイタ”という葉を集めにドン・ユーベンスと森に入った。蒸し暑い中での作業で4時間もすると、僕達は脱水症状みたいになりへたばってしまった。ドン・ユーベンスはまったく休まなかった。水さえも飲まずに、僕でさえやっと持ち上げられる葉の固まりを運び続けた。大きい男なのだろうと思うかもしれない。しかし体重55kgの彼は決して大男ではない。大きいのは彼の心なのだ。
彼の人生は闘いの連続だと言っていい。熱帯林で大家族を養う一方で、先住民の権利を信じホンジュラス政府との政治的闘いを指揮するという生活を続けるのは、生易しいことではない。
彼には何か、人を惹きつける魅力がある。彼の学校は熱帯雨林、受けた教育はぺチの文化だった。しかしながら彼は能弁で、ぺクの人々を無視してきた政治家達を歯に衣を着せず公然と非難した。なんの後ろ盾もなかったが、躊躇することもなく彼は表へと出て行った。彼の話運びは巧妙、それでいて主張にはパワーがある。
”ぺチ文化を復活させなければならない。言葉を残し、先祖の代から住み続けているこの土地の所有権を得る必要がある。”

ドン・ユーベンスは最後に残るぺチであり、ぺチ語が話せるほんの数人の内の1人だ。残念なことに、彼の子供達は聞いて分かるものの、ぺク語よりミスキトス語やスペイン語を話したがっている。子供達が学校で習うのも友達と話すのも、それらの言葉だからだ。政府が出資して、ぺチ語も使える学校を設けない限り、ユーベンス達がぺチ語を話せる最後の世代になる可能性は高い。


1999年9月10〜16日 ラスマリアス第1週目 (後編)

宗教とぺチ

ぺチ語の消滅や異種族間の結婚以外に、宣教師達の布教活動もペチ文化を脅かすものの一つになった。宣教師の布教により、先住民族の文化が失われつつある状況は世界中で起こっている。特にここホンジュラスのラスマリアスでは、教会が非常に強い力を持ち、村の人々の生活に色濃くその影響を与えている。

ある日、お世話になったオルディビオと彼の家族が、僕達を教会へと誘ってくれた。3つのキリスト教グループが、ここで布教できる権利を主張している。オルディビオと彼の家族が通うその中の1つの宗派は、”聖書の教え”というより彼ら”独自の聖書の教え”にしたがっているようだった。
僕はたしか12歳くらいを最後に、教会のミサに全く顔を出していない。しかし、このミサは非常におもしろかった。教会で見たこともなかった出来事が、目の前で起こるのだ。ミサの最中、それも聖歌を歌っている時に若い女性がトランス状態に入り、何かわからない言葉とミスキトス語とでぶつぶつ話し始めた。歌っているとも嘆いているともつかず、彼女は半分踊っているような震えているような感じだ。周りの人々は、全て理解しているかのように彼女の話に10分以上も耳を傾けている。頭を下げたままの人もいれば、両手を広げ天井を見つめる人もいた。こんな事が起こるようになったのは最近になってからだと、オルディビオが後で話してくれた。以前人々は、父なる神や神の子イエスに祈りを捧げ、聖霊の存在はすっかり忘れてしまっていた。ところが最近になって聖霊が、教会へ来た人々の体をかりて人々と対話をするようになったという。古くからの信仰が存在しなくなったとしても、昔の慣習(トランス、スピリットとの対話等)は新しい信仰の中で存続の道を見つけたのだ、と僕なりにこの話を解釈した。
さて、このミサは(いつも通り)4時間にもおよんだ。彼らは週に3回教会へ行っている。そのうち一回は、なんと早朝3時から始まるという。

ある日、12歳の女の子が「2000年が恐くない?」と僕に聞いてきた。驚いて、思わずまじまじと彼女の顔を見つめてしまった。まさかY2K問題を心配しているはずはない。コンピューターが何なのかだって知らないはずだ。僕が聞き直なおすと、彼女は「死ぬのが恐くない?」と言った。更に僕があれこれと尋ねて分かったのは、この世の終わりが近づき、2000年の1月が最後の審判の時になるということだった。何ヶ月もの間、牧師が世界の終わりについて彼女達に説き、彼女は疑うことなくそれを信じ本当に恐がっていた。牧師は、神からのメッセージを受け取ったと告げ、我々が自分達の信仰を証明する時間を徐々に失っていると伝えた。彼女にとって牧師はいつでも正しい。
僕はにっこり笑って、時には牧師だって人と同じように間違うことがあるんだよと彼女に言い、僕達の周りにある全ての美しい物を神様は長い時間かけて創造したのだから、彼がそれを一日で壊すはずはない・・・と、僕なりに一生懸命説明した。しかし、彼女を安心させることは結局出来なかった。”教えを説く”ことで生計を立て、人々を動かす力を持つ巧みな牧師とでは、僕に勝ち目はない。

すっかり洗脳された多くの村人達は熱心な教会の信者となり、自分達の文化や伝統に背を向けてしまった。聖書の教えにより、飲酒やダンスはタブーとなった。”飲酒すべからず”は、伝統的ぺチ族の飲み物 Chicha de Maiz Chicha de Yuca にまでおよんだ。
( Chicha de Maiz :サトウキビジュースをとうもろこしと一緒に発酵させた飲み物)
( Chicha de Yuca :発酵促進のために女達が唾液と共に噛みくだいたユカ芋を、サトウキビジュースに入れて発酵させた飲み物)
また、”踊るべからず”が神の教えだと人々が受け取れば、ぺクの伝統ダンスが消滅したのも不思議ではない。誰も踊らなければ、誰も伝統音楽を演奏する必要はないだろう。竹笛やヘビ皮をはった竹製の太鼓を習う人はいなくなる。 オランチョ村でぺク文化の指導者だったフランシスコは、なんとかして伝統音楽を復活させようとしていた。彼は竹笛やヘビ皮の太鼓を作り、伝統音楽を演奏した。しかし教会の力の前では、伝統も穴の開いた竹と空気でしかない。

英語テキスト:10〜16/9/99 First week in Las Marias

 


Poling a "Pipante" Dugout Canoe

1999年9月25日 特訓、丸太カヌー”ピパンテ” (ラスマリアス )

雨季の激しい雨の後、熱帯雨林を縦横にはしる川を通じて水が吐き出される。水辺に住む先住民にとって川は生命線だ。魚が獲れるだけではなく、その水は畑の潅漑や生活用水も供給し、彼らのライフスタイルはすっかり川に順応している。また、うっそうと茂る緑の中を流れる川は、唯一の交通路でもある。そして、彼らの足となるのが一本の丸太から作られたカヌーだ。1人分の幅しかない不安定な細長いカヌーだが、巧みな操作技術を伴えば、様々に変化する森の水路を行くのに驚くほど効率がいい。
モスキートコーストにあるプラタノ川生物圏の中心部に、ペチ族の住む村ラスマリアスがある。僕達は、遠征の一環としてこの村に立ち寄った。ここに滞在している間、僕達はシーカヤックから丸太カヌーへ乗り換え、伝統的なピパンテカヌーの特訓を受けた。
アマゾン河のような幅が広く比較的穏やかな川では、パドル(櫂)が使われている。しかし、ここラスマリアスの浅くて流れの速い川では、立ったまま長い竿を使いカヌーを進ませる。
僕の先生となった7歳のリリアンは、モスキチアの丸太カヌー”ピパンテ”漕ぎのエキスパートだ。彼女は川で泳いだり、パドルしたり、ピパンテにのりながら大きくなった。流れの速い川の上流でも朝飯前、行きたい方へと簡単にピパンテを操る。

練習三日目、リリアンは僕達を川の合流地点へ連れて行った。浅い反面、流れが非常に速いところだ。僕は、カメラを手に細長いピパンテにのっていた。「ひっくり返らないか?」と聞くと、彼女は笑って「大丈夫」と言い、舳先に立っている6歳の妹ベルナルダに指示を与えた。リリアンは川の深さにより木製のパドルと長い竿を器用に使い分け、激しい流れに逆らってピパンテを進ませていた。抜群のバランス感覚と、水の力や川を理解しているような動きに驚かされた。
川の合流地点にさしかかり、僕は仰向けのまま写真を撮り続けていると、水がどんどんピパンテに入ってきた。びしょ濡れになった僕を見てリリアンは笑っていたが、あせって水からカメラを守ろうとする僕の姿も見たに違いない。彼女は慌てることも注意をそらすこともなく、ベルナルダに早瀬にとどまれるよう素早く指示を与えた。
僕が写真を撮り終えたと知らせると、彼女はリラックスしたように川の水で顔を洗いながら、流れにまかせてピパンテを川岸へつけた。
「すごいなあ!リリアン、ベルナルダ!それじゃあ次は僕の番だ。」と僕は、岸に上がったベルナルダにカメラを渡した。昨日の練習で、僕はベルナルダものっていたピパンテを何回もひっくり返した。川に落ちても平気なベルナルダも、川の真ん中から岸まで何度も泳がされるのに疲れてしまったようだ。一方リリアンは世話好きで、僕のミスで転覆して川に落ちるのも楽しいようだった。どっちにしろ、リリアン無しでは練習が出来ないし、いてもらわないと困る。彼女には後方で大きいパドルを持って舵取りをしてもらわなければ。というか、僕がへまをした時にフォローしてもらいたい。
今日は、細長いピパンテの上に立つのも難なく出来た。スキーやスノーボード、他のスポーツ経験から、結構バランス感覚は良い方だと思っていた。が、ここに来てその自信も川の中へ落ちていった。僕のバランス感覚はここの子供達にも及ばない。

ピパンテを操るテクニックは、一見簡単そうに見える。竿を川底に立て、前に体重をかけながら竿が後ろへいくようにしてピパンテを前進させる。しかし、流れの速い場所では竿を立てるのも難しくなり、バランスと力が必要だ。川底の転がる石で竿が滑らないよう、しっかり支えなければならない。特に、早瀬に入るタイミングがずれれば後ろへ流されてしまい、立て直すのに一苦労する。重い丸太カヌーの勢いを止めるには、より高い技術と力がいる。時々、川が深くて竿はすっかり水の中、手だけが水面に残るということがある。あまりにも深すぎて竿が使えなくなると、後方に乗っている人がパドルする。とにかく、技術とコツさえつかめばピパンテを自在にコントロールできるはずなのだ。

さて、僕は竿を持ち、水の動きがなさそうな川岸近くから出発した。岩をよけた途端、流れの複雑な合流地点に入ってしまった。ピパンテは大きく横揺れし、僕はバランスを失ってぐらつきながらも竿を川底に立てることが出来た。しかし、ピパンテに遊ばれている船頭ではまったくの役立たずで、次は流れに押され始めた。この場はリリアンの達者な舵取りで乗り切り、僕達は隣の流れへと向かった。今度こそ役立たず解消だ。僕は三回竿を使って前進し、速い支流で2度目の挑戦を敢行した。
力一杯竿を押し、1mほど前進。流れの中に入ったものの、急に竿が底につかないほど深くなった。川の中にある竿は流れに押され、竿に引っ張られた僕はあえなく川に落ちてしまった。早瀬のど真ん中、ピパンテの上に立っている状態でのミスは許されない。が、七歳のリリアン先生の笑いを誘えたのだから良しとしよう。僕が水面から顔を出す間、彼女は舵を取って流れの中でピパンテを静止させていた。僕はそこまで泳ぐと、再び竿を握った。その後も何度となく川に落ちたが、楽しい練習だった。
川岸へ戻った僕は、ベルナルドに今度僕と一緒に乗ろうと誘った。彼女の返事は「ジョンフィリップと一緒はこわいよ。」・・・うなずける返事だ。自分の2倍はある馬鹿でかいガイジン男の下敷きになって川へ落ちるのだけは避けたいだろう(と、僕も思う)。
さて、次はルークの番だ。ルークが豪快に川に落ちるのを見て、僕は自分だけじゃないぞと変に自信を持った。スキーチャンピオンのルークでさえ、ピパンテには四苦八苦しているんだ。
僕達はピパンテだけではなく、川で泳ぐ練習もたっぷりとして今日の練習を終えた。

その後も毎日、僕はリリアンと一緒に小さいピパンテに乗り、練習を繰り返した。時間と共に、ピパンテに立つことや竿で進ませることにも慣れ、随分上達した。(第一日目と比べればの話だが。)そして嬉しいことに、早瀬以外ではもう川に落ちることもなくなった。ラスマリアスの10歳の子供達にも及ばないが、僕はピパンテを操れるようになったのだ。そして、練習を重ねれば、もっと上手くなる自信もついた。
しかし、リリアンからピパンテレースをしようと誘われた時、断わらざるをえなかった。どうみても勝ち目はない。それに、せっかく取り戻した自信を川に沈めたくないじゃないか!

英語テキスト:Poling a "Pipante" Dugout Canoe 9/25/99

J-Philippe  Soule ジョンフィリップ・スレプロフィール

更新日2000年4月 12日

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