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Jean-Philippe's journal 僕達は夜明け前に起きだし、まだ暗い中カヤックに荷物を積み込んだ。昨夜のサンドフライ(蚊より小さく、とても痛い)の攻撃は、最悪。ルークの顔を見ると、何か変だ。寝ている時に口をモスキート・ネットにつけていたらしく、ネットの上からサンドフライに唇を刺され上下両方の唇が腫れ上がっている。まさに”タラコ唇”! いつものことだが、予定の時刻を30分遅れて僕達は出発した。数分間波のパターンを読もうと海を見ていたが、暗すぎて波の崩れが見えない。こうなったら、全力で突進だ。波が激しくビーチに叩きつけられている。波の様子をうかがいながら重いカヤック(約100kgの荷を積んである。)を海へ引っ張っていかなければならなかった。ようやくカヤックに乗り込み、スプレーカバーをセットした時にはすでにシーソックスの中に半分以上水が入っていた。すぐさま闇の中をパドルし始めたとたん、顔に波がおもいっきりぶつかってきた。とにかくパドルし続け、サーフゾーン(磯波が立つ場所)は楽に越えられた。そこでルークを待っている間、僕はシーソックスに溜まっていた水をビルジポンプで汲み上げていた。 7km以上パドルしたはずなのに、後ろからはまだビーチに叩きつけられる波の音が聞こえていた。朝日で辺りが明るくなり始めた頃、ルークが僕を呼びとめた。「俺の唇、どうなってる?」ルークには悪かったが、僕は彼を見るなり吹き出した。唇がひどく腫れあがり、まるで漫画にでも出てきそうな顔になっていたからだ。 ルークがビーチの近くにあるゲストハウスを探しに行ったが、あったのはたったの一軒で選ぶ余地無し。僕達は部屋にカヤックや荷物を運びいれ、入国管理事務所を探しに出た。公式な場所では、見苦しくない服装でのぞむのが一般的なルールだろうが、グアテマラで出国スタンプを押されたのは4日前。空白の4日間を言い訳しやすくするためには「ようやく着いたんだ!」と強調できる今のずぶぬれ、よれよれ姿で行った方がいいだろうと僕達は考えた。 英語テキスト: 5/29/99
- Crossing to Honduras
オモアで知り合ったローリーにカヤックや荷物を預かってもらい、僕はスペイン語を習うためグアテマラへ向かった。評判の良い語学学校がケツァルテナンゴという標高の高い街にある。その間ルークは、ウチラ島へ行きスキューバダイビングのライセンスを取ったり、ガリフナ族の祭りに参加することになっている。 ホンジュラスからグアテマラの国境を越えるのは、まさに冒険だった。急な下り坂のカーブを曲がる度に、バスのタイヤがものすごい音をたてた。センターラインを超えて左へ右へ揺れるバスの中では、乗客が転げないようにと必死につかまっている。僕はグアテマラの国境を見ずに、この下り坂で旅の最後を迎えるだろうと考えたくらいだった。 僕はシェラの街でスペイン語クラスを申し込んでから、すぐに山間にあるトドス・サントスという街へ行こうと思っていた。そのためには、グアテマラシティーからシェラ行の朝一番のバスに乗らなければならない。次の日の朝4時半、僕はまだ暗い街の中をバスターミナルへと向かっていた。ガードマンはもういない。道で寝ている者や、通りをうろついている連中がいる。これほど不安になったことはない。バスターミナルに着いてみると、なんとまだ閉まっていた。おまけに6時までバスがない。ホテルで聞いた話とは全然違う。 定員数の2倍の乗客を詰め込んだバスで5時間、シェラの街に到着した。ここのICAというスペイン語学校に申し込みをした。僕は月曜日からのレッスンを受けると言い残すと、すぐさま違うバスに飛び乗った。最後に乗り換えたバスは、山のでこぼこ道をゆっくりと登り始めた。乗客は皆、色鮮やかな伝統衣裳を着ている。小さな村トドスサントスでバスを降りると、かわいい子供達が待っていた。僕は挨拶をかわし、その子供達の案内で安宿へと向かった。 その後2週間、僕はICAでスペイン語を勉強した。学校も教師達も文句無しで、僕はそこで多くのことを学び、特に文法はかなり上達した。しかしそれだけではなく、グアテマラの歴史についても知ることが出来た。僕の先生だったネリーは、先住民の権利を擁護するために法律の勉強をしていた。彼自身も先住民の血を半分受け継いでいる。マリオという先生は、社会心理学の論文で先住民の難民問題を取り上げた。平和協定が結ばれた後、逃亡先のメキシコからグアテマラに戻ってきた先住民についてだ。他にも同じように先住民を支える活動をしている人々と会うことができた。この語学学校自体、再植林をはじめとして、ストリートチルドレンや先住民を援助する独自の活動を行っている。 数週間後、僕はまたうんざりするほどの長い時間バスにゆられ、ホンジュラスへ戻ってきた。そしてプエルトコルテツで、ルークやリチャードと無事再会できた。人権侵害問題や犯罪は、たしかにグアテマラで起こっている。しかし、心配していた交通機関での犯罪は取り越し苦労だったし、僕が行った街の殆どは安全で、人々もとても親切だった。 英語テキスト: June
99 - Kayak storing in Omoa - Honduras. Visit and Spanish Studying
in Guatemala
1999年8月9日から14日 オモアからラ・セイバヘ (前半) ルークと僕は、カヤックやその他のギアが置いてあるオモアへ戻った。僕のカヤックフレームはホンジュラス到着寸前で壊れてしまっていた。以前ルークが彼のフレームを直した時と同じように、僕もフレームにガムテープをぐるぐる巻いて修理した。荷物を全て詰めなおし、防水バックの中に密封した。更にチャックにワックスを、金属部にはオイルを塗り、すべての防水ケースの金具やカメラなどにもオイルを塗った。焼き立てのパンをフードパックに詰め、ようやくラ・セイバに向けての準備が完了した。 月曜日早朝。ビーチにカヤックとすべての荷物を運び、僕達は出発した。第1日目なので、パドルするのはここからプエルトコルテツまでの短い距離にとどめておいた。ありがたいことに、プエルトコルテツでリチャードの友人がカヤックをしまっておく場所を提供してくれた。僕達は荷物やカヤックをそこへ置かせてもらい、リチャードの家へ行った。彼には感謝しっぱなしだ。夕方、僕達はキャンプをするためビーチに戻ってきた。夜中、嵐とひどい雷、稲光のおかげでほとんど寝ることが出来なかった。朝3時、目覚ましがなったものの、ものすごい雷がいたるところで鳴り響いている。僕達は目覚ましを4時半にリセットし、また眠りに就いた。しかし一時間半経っても、状況は変わりそうになかった。ここが人里離れた無人の浜だったら、僕達は起きて嵐の中をパドルし始めていたかもしれない。でもここはプエルトコルテツ、安心してカヤックを保管できる場所もある。結局僕達は今日はここにいて、のんびりすることにした。 水曜日、朝。僕達は再びパドルし始めた。波のうねりや向かい風と4時間以上も闘い、ようやく無人の浜に着いた。しかし太陽の強い日差しを防ぐ場所がここには全くない。僕は、嵐で流されてきたような流木の中から支柱になりそうな木の棒を4本集め、ルークが料理をしている間、砂浜に穴を掘って棒をたてた。棒が埋まっている根元に水をかけ、しっかり固めて倒れないようにして、プラスチックタープを地面から1mの高さにつけた。昼間、僕達はずっとその下で横になっていた。タープで直射日光は防げたものの、温度はまるでサウナと同じだ。暑さから来るエネルギーの消耗、気力の低下で水を飲むこと意外何もしたくない。うだるような暑さで寝ることさえも出来なかった。砂浜に横になりながら、僕達はぼーっとしていた。うつらうつらと半分寝ているような寝ていないような、幻覚が見えてもおかしくない、そんな状態だった。日が沈んでから、ようやく僕達は少し動き始めた。暑さもだんだんおさまってくると、これから出発(午後8時くらい)出来るんじゃないかという話になった。サル岬の少し手前にすごくきれいなラグーンがあるとリチャードから聞いていた。ここからパドルしても遠くはないし、僕達はそこへ行くことにした。 しかし、まさかそこが遠征出発以来最悪のキャンプ地になろうとは思いもしなかった。 英語テキスト:August 99 - Omoa to La Ceiba:
Omoa to Tela (8/9 to 8/14)
目覚ましが鳴る時刻(4時半)の4時間前だというのに、まだ僕達はすべての荷物を詰めこむのに悪戦苦闘していた。モスキチア出発の2日前くらいに、カヤックやキャンピング・ギアを詰めておけばよかった。予定が狂った場合、計画の見直しをしなければならないが、そのことさえもすっかり忘れてしまうこともある。 ラ・セイバの街に着いてから数日間はホームぺージを更新したり、最近の記録を入力したりと、コンピュータの仕事ばかりしていた。その後僕達は、泊まっていたホテルから
Ecoaventuras の2階にある宿の相部屋に移った。Ecoaventurasはモスキートコーストで一番評判のいいツアー会社だ。 朝4時45分。2回目の目覚ましがなり、仕方なく頭を起こした。タクシーの運転手がドアをノックしたようだ。僕達はホテルのマネージャーにタクシーを手配してもらっていた。運転手にあの大荷物を見せる前に値段の交渉をしておかなければならない。まず僕が、2つくらいのドライバックを持って交渉しに行った。 45分後、僕達はパラシオスに到着した。飛行機はサッカー場のど真ん中に着陸。そこではチップ目当ての子供達が荷物運びに一生懸命働いていた。空港のチーフで一番近い宿泊所のオーナー、ドン・フェリックスと挨拶をかわした後、僕達は近くにいた子供達と遊び、彼らにチップを払って荷物運びを手伝ってもらった。 英語テキスト:3/9/99 - First Flight into La
Moskitia
1999年9月3〜8日 パラシオスからクリへ 運河を通りラグーンをパドル モスキチア遠征の出発地点となるパラシオスから、プラプラヤというホンジュラスで一番南にあるガリフナ族の村までをまずパドルした。そこで、伝統的なプンタダンスの夕べを見たり、カメの保護活動を進めている女性と話す機会を得た。このプラプラヤにはまた戻ってきたい。しかし今はまず、目的地のラスマリアスへと先を急ぎたい。 その後僕達はライスタに到着し、エディ・ボデンと会った。彼はアメリカの平和部隊が最初に作ったバタフライ・ファームの責任者で、エコツーリズムプロジェクトの昆虫学者でもある。僕達は彼とすぐに親しくなった。会ったばかりでも信頼出来る奴、彼は正にそんな男だ。エディには会っておけと、モスキチアで皆に言われた訳が分かる。また戻ってくると確信して、僕達はライスタを後にした。ラセイバの入国管理事務所でビザを更新する間、ここにカヤックを置かせてもらうことになりそうだ。 イバンスラグーンを抜け、人の手で切り開かれたような運河をパドルする。マングローブの林や牧草地を横切るその運河を後にすると、小さいラグーンにたどり着いた。いくつかの村があり、クリ族も住んでいる。そこで休憩も兼ねて、ミスキト族の子供達4,5人ずつをカヤックの上に乗せてあげた。それから僕達はプラタノ川に続く最後の運河を目指しパドルし始めた。1.5kmくらいしかないこの運河は幅が狭い上に、大きい木々の根の間では流れが渦を巻いていた。頭上を覆う木々の枝や葉があまりにも密集していて、その中を通る僕達はまるで緑のトンネルにいるようだった。そこら中に野生の花が咲き乱れ、つるが地面につくほど長く垂れ下がっている。木々のわずかな隙間から光が射し込み、”ワンダーランド”不思議の国さながらの雰囲気を作り出していた。狭い運河を慎重にパドルしなければならないのに、ついその美しさに見取れ、カヤックが何度も根にぶつかった。やっとプラタノ川に到着したけれど、この夢のような場所を後にしたことを少し後悔した。 プラタノ川を数日パドルすれば、ラスマイアスに到着する。河口の村、バハプラタノからの出発だ。 英語テキスト:3-8/9/99 Palacios to Kuri, Paddling
through canals and inside lagoons
ラスマリアスは、先住民ぺチの人々が最初に作った村だ。それから何年にもわたり、多くのミスキトスの男達がぺチの女性と結婚しにここへ移って来たため、非常に交じり合った文化を持っている。そしてラスマリアスはぺチのコミュニティー(村)の最後の一つとして数えられ、ここプラタノ生物圏保護区にあるたった一つの村でもある。 僕達がラスマリアスに来たのはぺクの文化や過去と現在のライフスタイルを知るためで、とにかく村のお年寄りやぺチ語を話せる人、ぺチの文化を守り続ける人達に会いたかった。言葉(言語)はその文化をも伝えると信じている。しかし、ぺチ語をきちんと話せる人が20人にも満たないこの村の場合、どうやって言葉(文化)を残していけるだろうか。失われつつある文化を身をもって体験し、記録を残すためにここへ来たという僕達の目的がよりはっきりする。 初めの1週間は、人と話をすることに終始した。エコツーリズムの責任者マーティンや、1990年にここの生物圏区に移ってきた家族の4兄弟と会った。ぺクの文化や伝統を守ろうする人々の中で、最も活動的なのがベルナルドとフランシスコ兄弟だった。彼らはラスマリアスから4時間ほど川を上ったところに住み、ベルナルドはそこに新しくゲストハウスを建てた。僕達は、次の週から彼の家族と一緒にそこで生活をすることにした。 その後僕達はドン・ディビオの息子ドン・ユーベンスに会い、ラスマイアスにいる間ほとんど彼と一緒に行動した。ドン・ユーベンスは、政府から認められたぺチ族の組織で代表を務めている。彼は、ベルナルドやフランシスコ、村の住民と共に、ぺチの文化や伝統、言葉を残していこうと活動し、ホンジュラスにおける先住民の権利のためにも奔走している。 ドン・ユーベンスは最後に残るぺチであり、ぺチ語が話せるほんの数人の内の1人だ。残念なことに、彼の子供達は聞いて分かるものの、ぺク語よりミスキトス語やスペイン語を話したがっている。子供達が学校で習うのも友達と話すのも、それらの言葉だからだ。政府が出資して、ぺチ語も使える学校を設けない限り、ユーベンス達がぺチ語を話せる最後の世代になる可能性は高い。 ぺチ語の消滅や異種族間の結婚以外に、宣教師達の布教活動もペチ文化を脅かすものの一つになった。宣教師の布教により、先住民族の文化が失われつつある状況は世界中で起こっている。特にここホンジュラスのラスマリアスでは、教会が非常に強い力を持ち、村の人々の生活に色濃くその影響を与えている。 ある日、お世話になったオルディビオと彼の家族が、僕達を教会へと誘ってくれた。3つのキリスト教グループが、ここで布教できる権利を主張している。オルディビオと彼の家族が通うその中の1つの宗派は、”聖書の教え”というより彼ら”独自の聖書の教え”にしたがっているようだった。 ある日、12歳の女の子が「2000年が恐くない?」と僕に聞いてきた。驚いて、思わずまじまじと彼女の顔を見つめてしまった。まさかY2K問題を心配しているはずはない。コンピューターが何なのかだって知らないはずだ。僕が聞き直なおすと、彼女は「死ぬのが恐くない?」と言った。更に僕があれこれと尋ねて分かったのは、この世の終わりが近づき、2000年の1月が最後の審判の時になるということだった。何ヶ月もの間、牧師が世界の終わりについて彼女達に説き、彼女は疑うことなくそれを信じ本当に恐がっていた。牧師は、神からのメッセージを受け取ったと告げ、我々が自分達の信仰を証明する時間を徐々に失っていると伝えた。彼女にとって牧師はいつでも正しい。 すっかり洗脳された多くの村人達は熱心な教会の信者となり、自分達の文化や伝統に背を向けてしまった。聖書の教えにより、飲酒やダンスはタブーとなった。”飲酒すべからず”は、伝統的ぺチ族の飲み物
Chicha de Maiz や Chicha de Yuca にまでおよんだ。 英語テキスト:10〜16/9/99 First week in Las
Marias
Poling a "Pipante" Dugout Canoe 1999年9月25日 特訓、丸太カヌー”ピパンテ” (ラスマリアス ) 雨季の激しい雨の後、熱帯雨林を縦横にはしる川を通じて水が吐き出される。水辺に住む先住民にとって川は生命線だ。魚が獲れるだけではなく、その水は畑の潅漑や生活用水も供給し、彼らのライフスタイルはすっかり川に順応している。また、うっそうと茂る緑の中を流れる川は、唯一の交通路でもある。そして、彼らの足となるのが一本の丸太から作られたカヌーだ。1人分の幅しかない不安定な細長いカヌーだが、巧みな操作技術を伴えば、様々に変化する森の水路を行くのに驚くほど効率がいい。 練習三日目、リリアンは僕達を川の合流地点へ連れて行った。浅い反面、流れが非常に速いところだ。僕は、カメラを手に細長いピパンテにのっていた。「ひっくり返らないか?」と聞くと、彼女は笑って「大丈夫」と言い、舳先に立っている6歳の妹ベルナルダに指示を与えた。リリアンは川の深さにより木製のパドルと長い竿を器用に使い分け、激しい流れに逆らってピパンテを進ませていた。抜群のバランス感覚と、水の力や川を理解しているような動きに驚かされた。 ピパンテを操るテクニックは、一見簡単そうに見える。竿を川底に立て、前に体重をかけながら竿が後ろへいくようにしてピパンテを前進させる。しかし、流れの速い場所では竿を立てるのも難しくなり、バランスと力が必要だ。川底の転がる石で竿が滑らないよう、しっかり支えなければならない。特に、早瀬に入るタイミングがずれれば後ろへ流されてしまい、立て直すのに一苦労する。重い丸太カヌーの勢いを止めるには、より高い技術と力がいる。時々、川が深くて竿はすっかり水の中、手だけが水面に残るということがある。あまりにも深すぎて竿が使えなくなると、後方に乗っている人がパドルする。とにかく、技術とコツさえつかめばピパンテを自在にコントロールできるはずなのだ。 さて、僕は竿を持ち、水の動きがなさそうな川岸近くから出発した。岩をよけた途端、流れの複雑な合流地点に入ってしまった。ピパンテは大きく横揺れし、僕はバランスを失ってぐらつきながらも竿を川底に立てることが出来た。しかし、ピパンテに遊ばれている船頭ではまったくの役立たずで、次は流れに押され始めた。この場はリリアンの達者な舵取りで乗り切り、僕達は隣の流れへと向かった。今度こそ役立たず解消だ。僕は三回竿を使って前進し、速い支流で2度目の挑戦を敢行した。 その後も毎日、僕はリリアンと一緒に小さいピパンテに乗り、練習を繰り返した。時間と共に、ピパンテに立つことや竿で進ませることにも慣れ、随分上達した。(第一日目と比べればの話だが。)そして嬉しいことに、早瀬以外ではもう川に落ちることもなくなった。ラスマリアスの10歳の子供達にも及ばないが、僕はピパンテを操れるようになったのだ。そして、練習を重ねれば、もっと上手くなる自信もついた。 英語テキスト:Poling a "Pipante"
Dugout Canoe 9/25/99 J-Philippe Soule ジョンフィリップ・スレプロフィール 更新日2000年4月 12日 |
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