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Luke's journal

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ルーク遠征日誌

ベリーズ&グアテマラ 1999

★印はオススメの遠征日誌です。

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ルーク遠征日誌 バハ編 /ホンジュラス編   /ニカラグア編 / コスタリカ編


3月初旬   ベリーズの第一印象   「訛を話せ!」

3月下旬から4月初旬 ホプキンス : 過渡期の村

4月下旬 ケッチインディアンとマヤ族の中での10日間

5月20日 プンタ・ゴルダ 「ケツをドアにぶつけるな。」

5月21日 グアテマラ リビングストーンへの長い道


Ya Gotta Talk the Talk

1999年3月初旬   ベリーズの第一印象   「訛を話せ!」

  ベリーズは妙なところだ。国境を越えて最初の町コロザールにはいると、黒人も白人も中国人もヒスパニックもみんな少なくとも2カ国語は話す。そのうちの1つは大抵クレオール語だ。(クレオール語:主にヨーロッパの言語と非ヨーロッパ言語との接触による混成語)

  あちこちで英語の単語やフレーズを聞き取ることが出来たが、それは標準英語からはほど遠く、全く他の言語と言ってよかった。動詞の活用は存在せず、なんでも省略して強いアクセントで、日常表現的な単語をよく使って話す。彼らは私たちが日常会話で親愛を込めて使うような言葉、たとえば、お互いを呼ぶときに使う"Boy"といったような単語さえ使っていた。
そして、彼らが相手に対して丁寧に言いたいときや、何か欲しいときには"Boss"と言い、"Baad"は"Bad"、"Haaht"は"hard"で、"And then I said…."は"An nen I seh"のようにに省略して話す。
誰か、たとえば店員が旅行者相手にうきうきした調子で完璧な英語を話していたところへ友達が現れると、いきなりクレオール語でぺちゃくちゃやりだす様子は本当に驚きだ。黒人がカリビアン調のスペイン語を話すときにはアントニオ・バンデイラスを意識する。なぜって、それが本当のソフトでスタイリッシュなラテンの発音だからね。

  当然のことだが、人間はまわりの環境によって形成される。言語の習得はいい例だろう。私たちは1国1言語使用というこれまでの概念が頭からなかなか離れなかった。1人の黒人が訛のない流ちょうな英語を話すと他の黒人は彼を"Oreo(白人体制を支持する黒人の意)"と呼び、白人の子供がすらすらと俗語を使っていると、"Poser(気取りや)"と言われる。しかし、ここでは中華料理店のオーナーが家族と広東語で話していたのに、黒人の客が店にはいったとたんにクレオール語でべらべら話し出しても、私以外は誰も気にしない。

  私たちがベリーズの市内の水上タクシー乗り場で座って荷づくりしていると、1人のじいさんがにじり寄って来て"Wheh ya gwinta baiy?"と何か聞いてきたが私は3回繰り返してもらってもまだ解らず、スペイン語で話さなくてはならなかった。彼がいなくなって数分後にやっと彼が"Where you going boy(どこへ行くのか)?"と言っていたことに気が付いた。
  ベリーズでは誰もがにこやかで、陽気な言葉をかけてくる。日銭を稼ぐ道ばたの物売りや車洗い、使いっ走りに関しては特にそうだ。親しみ半分、商売根性半分でみんな話しかけてくるが、これはアクセントを聞き取る練習をするのにはもってこいの機会になる。だが避けることの出来ないこと、つまり、彼らが自己紹介をしてから数分間社交的におしゃべりしたあと、"Cahn I geht a dallah doss?(1ドル、持ってない?)"と金をせびりだし、手をポケットに突っ込んでくるのをよけるのは難しい。

  それでもこれだけは覚えた。"yah know whehn ya geev, ya geht, eet cum back in many way,(人に施してもそれはまたちがうところから、いつかあんたに戻ってくるさ。)"と言ってきたときにはにこやかにここの訛で"I jus down yea leeveen man, I gwin to the islands.(ここにはちょっと立ち寄っただけでさ、これからすぐに島に行かなきゃならないんでね。)""Nice to meecha man.(あんたに会えて嬉しいよ。)"と言って握手して逃げる事だ。

英語テキスト:Ya Gotta Talk the Talk
訳:長谷川 祐希  訳者プロフィール


1999年3月下旬から4月初旬 ホプキンス : 過渡期の村

  「昔のようになんでも簡単ではなくなった。」とこの村の人達は言う。9年前、電気が通るとすぐにテレビと旅行業者が入ってきて、生活が少し変わった。それまで人々は自給自足の生活をしていた。魚を釣ったり、キャッサバからビ−ルやケーキを作ったり、ココナツの入ったクレオールブレッドを焼いたりしながら、柑橘系の果樹を植えて、よその町で買い物するための現金を得ていた。今では毎月請求書がやってくる。有線テレビや電力会社に使用料金を払わなくてはいけないし、、近所の話題についていくためにはステレオを買わなくてはならない。子供達は青年になるとすぐベリーズ市内へ出ていく。彼らはラップを聴き、ナイキの服を着て、アランアイバーソンみたいなヘアスタイルで、いつかアメリカで働くことを夢見ている。何人かの村人は空き部屋を貸し出したり、食べ物を売ってやりくりしている。彼らの生活必需品が増えるにつれて、どこかから金を調達してこなくてはならなくなる。だが、しばらくの間は、ここの生活もこのままだろう。陽気で誇り高い村人達は、喜んで自分たちの生活や伝統について話してくれる。

  もし近くの小島へ出ているときに、旅行会社のオーナー、リレイ・アンダーソンに会わなかったら、ホプキンスへ行くことなど思い付きもしなかっただろう。彼はこの辺りの島々を中心にして、ホビーキャットツアーと言う旅行会社を経営し、ホプキンスに事務所をおいていた。数年前、彼はそこを訪れた時にその環境と人々に惹かれて、直感的にそこでビジネスを成功させようと決めたらしい。彼の住む辺りではまだ伝統的な生活を送っている人達がいる。彼に「見に来るといい。」と言われ、私たちはすぐにOKした。

  ビーチで車を止めてそこへ行くと、ほとんどの家は薄い板で出来ていて、何本かの支柱とトタンで囲ってあるだけのものだった。ヤシの木が陰を作る庭には野菜の皮や、農機具が散らかり、料理用のたき火の跡が残っていた。その様子からこの村の自給自足の生活が伺えた。
漁師達は木のボートから網一杯のフエダイやカワカマスをおろしていた。サリタという名の中年の大柄な女性は、裏庭にあるドラム缶で出来たパン釜に流木の炭をくべて、シナモンロールを焼いていた。その焼き方は、彼女の母親や祖母のものと変わらないという。そして、子供達はやしの木に登ったり、虫を捕まえたり、波と無邪気に戯れていた。

  ここでも町に忍び寄ってきている文化帝国主義の跡があった。これは彼らの歴史的なルーツと奇妙なほどに対照的だった。リレイの隣人はシカゴ地区に長い間住み、金を貯めて近代社会を象徴する全ての物を村に持ち帰ってきた。彼らのセメントで出来た平屋はコーヒーテーブル、ガラス戸の付いた戸だな、ステレオ、そして大きなテレビでいっぱいだった。夕暮れ時にバスケットコートにたむろしている子供の中には、エアジョーダンやNBAのジャージを着ているのもいた。親が自営業をしている家の子供は、外に出て遊ぶよりも家で座ってHBOを見ていた。―が、そのすぐとなりの家では、自分で縫った服を着た女達が、表面の粗い板のテーブルの上で料理に使うココナツの果肉を削り、その子供達は見事なほどにぼさぼさの髪で、遊んでくれる人(私)を見つけてにこにこしていた。

  ホプキンスはまだ人類学者がガリフナ文化を研究出来る場所だ。私たちは、この土地の心霊儀式と社会宗教の歴史を中心に研究するために何年かぶりでここに戻ってきたというフランス人に会い、話を聞いた。彼らは、今でも村人が霊にとりつかれて自分をひどく主張したりするという。そして、セントビンセントの先祖からお告げを受けるためにドゥーグを踊ったり、儀式のための小屋を作る。ここに来れば、彼らは喜んでその伝統やルーツについて話してくれるのだそうだ。

  ”変化”していくことはどうしても避けられないことだ。今後10年が決定的な時期になるだろう。生活必需品が増え、経済の本質が変わることは間違いない。サリタはシナモンブレッドの店をだすかもしれないし、子供達はファミコンで遊びだし、木の家は新しいセメントの家の暖炉にくべる薪になってしまうかもしれない。
  だが当分は、パイをかじりながら夕暮れ時を歩けば、夕食の準備に精を出す人やバンダナを巻いた普段着の女が洗濯物を取り込んでいるのを目にすることができるだろう。どこからか聞こえてくるドラムのリズムや、こちらによってきてはおにごっこに誘う子供達も変わりはしないだろう。

英語テキスト:A Garifuna Village in Transition
訳:長谷川 祐希  訳者プロフィール


1999年 4月下旬 ケッチインディアンとマヤ族の中での10日間

  「ブルークリークで一日を過ごす価値は絶対にある!」たとえそこにたどり着くまで、どんなに大変なことが起ころうとも。
  数週間前、私は母と妹にこの緑の中の宝石を見せようと、プラセンシアで車をレンタルし、3時間走った。だが車は途中で故障し、ヒッチハイクをする羽目になった。その上、地元のメノー派教徒(プロテスタントの宗派の一つ)が牽引していった車を私が取りに行かなくてはならず、これで数時間がつぶれてしまった。が、それでもたのしい一日を取り戻すことが出来た。

  ロッジの前にはエメラルド色のプール(実は川の一部だが)があり、そそり立つ岩とひびの入った石灰岩がその上に陰を作っていた。10分ほど歩いて上がるとそこには小川も流れている。この、実に珍しい地形を見れば、誰もが畏敬の念を持つのではないだろうか。
  このロッジのマネージャー、イグナシオはケッチインディアンとマヤ族のハーフで、地元の熱帯雨林やジャングルについて熟知していた。(熱帯雨林とジャングルにははっきりとした違いがある。前者は背の高い木が多くて木々の枝が頭上を覆い、植物の密度が低い。後者はその反対。)それにどうしたらここで有益かつ快適に過ごせるかも知っていた。彼のすすめで、ジョンフィリップと私は未だに伝統を守っているマヤ族の人々とケッチインディアンの生活を10日間タップリと見せてもらう計画をたてた。この計画の中に洞窟探検を何度か盛り込んだ。ジャングルでのサバイバル術や、カカオ製品、トウモロコシと米の加工技術、そしてすばらしい調理のテクニックも学んだ。おかげでお勧めのレシピもふえた。英語版アウトドアクッキングのページを見て欲しい。

  この10日間の滞在でたくさんの子供達と親しくなった。また地元の野生生物や危険をはらむ生物についてまでも、より深い知識を得ることができた。 私たちは毎日二、三の活動や訪問を計画していて、そこに滞在した10日間はあっと言う間に過ぎていった。午後は泳いだり、コンピューターに入力するための原稿の下書きをしたりして過ごした。日が暮れて発電器がつくまでの間、しばらく仕事をしたあと、息抜きにロッジの前の川に出来た天然の大きなプールでおよいだ。夜はコンピューターにむかったり、新しいファイルを作ったり、好奇心一杯の村人や、ホテルの従業員にデジタルフォトを見せたりした。全ての出来事が楽しかった。私たちはいつも以上に仕事をこなし、オンラインにいれた。

  今、私たちはジャングルでも生き延びることができる。その術を教えてくれた小さなコミュニティーのケッチやモパンマヤの人々に感謝している。また、私たちが彼らの生活の中にヒントを与えたかもしれないということは、私たちにとって大きな励みになる。やがて村を変えてしまうであろう現代のテクノロジーや社会的影響と彼らが向き合う日が来たとき、私たちが提案したいくつかのアイデアやちょっとした悪知恵は、これから彼らが進めようとしている小規模なエコ・ツーリズム計画の成功や、彼らのルーツや生活様式を守るのに役立つだろう。
  私達はプラセンシアに戻り、二、三日後にはまた移動する。私はばい菌によって膿んでしまった耳の中を治療しなければならないし、私たちは他にもまだやらなくてはならないことが山ほどある。が、それでも二、三週間以内にはグアテマラのリオドゥルセ地方へ着いていなくてはならない。

訳:長谷川 祐希  訳者プロフィール


1999年 5月20日 プンタ・ゴルダ 「ケツをドアにぶつけるな。」

ベリーズでの2ヶ月は文句なしだった、と言いたいところだが(正義の秤は常に平衡にしておかねば)やはり出国時に不愉快で面倒な目にあってしまった。信じられないようなすばらしい経験ができた分、この国を去る時の気分は複雑だった。
水中マラソンの日、私は耳の痛みに悩まされていたが、出国スタンプをもらいにでかけた。そこで性格の悪い税関職員にあったってしまい、たったスタンプ一つにすごい時間がかかった。ベリーズでの最後の2,3日はまるで目に見えない何かが邪魔をしているかのようだった。午前3時にはグアテマラ・リビングストーンを通過する予定だ。すばらしかった2ヶ月間の唯一の汚点、プンタゴルダから離れてせいせいする。

ブルークリークからプラセンシアへ戻って以来、耳の痛みに悩まされている。ちょうど耳の下の方にあるくぼみの辺りにばい菌が入ったらしく、ずっと痛みがとれなかった。私はプラセンシアに戻ったその日に町の診療所へ行き、アンピシリンという抗生物質をもらったが、全く効かなかった。今度は痛みを和らげるイブロプロフェンを多めに服用したので、2日間は痛みも落ち着き、食事も睡眠もとれた。しかし、ものを噛むと激しく痛んだのでまた医者へ行き、それに効きそうなテトラシクリンという薬にかえてもらった。
それから3日後に痛みはほとんど消えた。だが、私たちが出発する日の前日の朝、また耳が少し痛みだし、時間が経つにつれ痛みはどんどんひどくなっていった。翌日午前4時半には目覚まし時計の音と、思い切り締め付けられるような激しい耳の痛みに起こされた。出発は延期せざるを得なかった。今度はセファレキシンに薬をかえ、イブロプロフェンと水の入ったボトルを片手にハンモックに横になっていた。自然災害に遭っても日程を延期する事なんてなかったのに。

翌日私たちは5時に起きてボートに荷を積み、出発の準備をした。朝に耳が痛まないように一度夜中におきて、イブロプロフェンを飲んでおいたのが効いたようだ。7時にはもう準備は整っていた。ディヴが作ってくれたトーストとお茶を飲んで、別れのあいさつをしたあと私たちは南へ向かって出発した。1ヶ月以上離れていた海に戻り、再び前進する。
体がなまっていたのに加えてこの暑さ。モンキーリバーまでの20kmはハードだった。両手に水膨れができ、肩はいうことをきかなくなり、肌は日に焼けて真っ黒になった。雨期に入る直前のこの時期は一番暑く、私たちにはかなりこたえたので、この日から出発は早朝にすることにした。
昼前にモンキーリバーに着いたので、私たちはそこで休むことにした。ちょうど河口の前に小さい建物を見つけ行ってみると、それはテキサス出身のカップルが経営しているモンキーハウスというレストランだった。この村はさびれていて、サービス業は皆無と聞いていたが、私たちはマホガニーの家具と店のオーナーのサムの作った雨戸のあるきれいな部屋で、彼のパートナー、マルタに鳥の蒸し焼きとアイスクリームをふるまってもらった。すっかり元気になって午後はチェスをし、夜は彼らのビーチで寝かせてもらった。私たちがまさに必要としていた休息と充電だった。

22〜28kmほど進む予定で6時半にはもう海に出ていた。理想的な気温、微風、低い角度からの日差し、最高のパドルだった。土地の人達の朝食の時間よりも早くに、私たちは最初のチェックポイントかつ休憩地点であるプンタネグラまで来ていた。ここまで15kmのパドル。浅瀬を見つけ一休みする。あと7kmで今日の目標地点だから、早い時間にいいところまで来たことになる。しかし実際はそうではなかった。
次のポイントを通過して別の浅瀬の湾にはいる。左手に群島を見つけ、私たちはキャンプできそうなビーチを捜し回る。つややかで生き生きとした植物は目を楽しませてはくれるが、地面はじめじめして虫が飛び回り、キャンプには最悪だった。まわりはマングローブの湿地帯しかなく、私たちは祈りながら動き続けた。30kmパドルした時点で別のキャンプできそうな群島が見えた。しかし近づいてみると、それもマングローブだった。

私たちは胃袋に軽い物しか入れていなかった.料理しようにも場所が見つからない。こうなるともう自分の精神力との闘いだ。全身の疲れを払いのけ、パドルを水の中につっこんでひたすら前進し続けるしかない。遙か彼方のポイントは私たちの頭のなかにインプットされていたが、それはあくまで参照事項としてであり、休息地点としてではなかった。何時間も続く激しい運動に筋肉は逆らうことをやめ、体は疲労状態から半ば意識が薄れ、体だけが機械的に動く状態になる。パドル以外の現実を忘れ、ほとんど静止しているような感覚におちいる。ポイントや島についても、水を飲んで30秒の休憩しかしなかった。運良く追い風が吹いてきて前進しやすくなりプンタゴルダには午後3時に着いた。約42km、9時間のパドル。パドルしているときから目を付けていたレストランに直行し、ご飯、豆、鶏肉のシチューを食べる。今日ほど鶏肉のシチューがこんなにうまいと思った日はなかった。

その夜のキャンプ場は防波堤の横にある草むらだった。防波堤のくぼみにカヤックを引き上げたので近くで見張っていなくてはならないからだ。通行人の好奇の目と断続的なスコールに見舞われるが、その晩はなかなか快適だった。翌日の予定は出国審査と休息。

普通カリブの港町での出入国審査と税関手続きは簡単で、印象もよく、出国するまでの24時間はあちこち見て歩くことが出来るようになっている。私は職員とのフレンドリーな会話と暖かい審査を期待していた。出国審査はまさにその通りになったが、税関はそうはいかなかった。出国審査の時、数週間前にビザの更新をしたときにあったガリフナ族の黒人女性がいた。彼女はとても人なつこく、私たちの遠征の無事まで祈ってくれた。しかし、このやりとりを隣の税関室から横目で見ていた背の低いラテン男はすぐに私たちに突っかかってきた。やつは真夜中に出国する理由をしつこく問い詰めだし、いかにも私たちの安全を心配するふりをして、いかにも嘘っぽい不幸な最期を遂げた船乗りの話をした。彼は私たちの論理的な指摘も横柄な態度とバカらしい屁理屈で交わし、ただ私たちの邪魔をしたいがために新しい法律まで作り出す始末だった。

「賄賂のためにあんなにがんばる職員も珍しい」とあとでジョンフィリップが言うまで、全く鈍感な私はヤツがただのげす野郎以外の何者でもないと思っていたのだが、よくよく考えてみると、思い当たることが節々にあった。あの時ヤツは私に自分の立場になって考えろと言ってきた。そして「裏と表のあるコインと同じことさ。スタンプを押して真夜中に君たちを出国させることは非常に“困難”だが…、」とまで言って、コインを取り出して私をじっと見つめ、私の前にあるテーブルの上にそれを置いたりした。他にもヤツはこの仕事がいつまであるかわからないし、仕事がなくなれば貧しい家族の幸せもどうなるかわからないとジョンフィリップに言っていた。
その夜、午前3時に警察署に着いたときの喜びといったら!警察官はみんな同情的で、すぐにヤツのドアをノックしに警官を送った。ヤツは警察署まで来て渋々スタンプを押し、私たちはやっと出国出来るようになった。
発展途上国にいて、忍耐と笑顔なしで思い通りに事が運ぶことはまずないだろう。基本ルールは役人によってかえられる。ヤツが私たちを見送るときの嫌みたっぷりの挨拶に、口をふさいでおくのはつらかった。

「ベリーズ訪問ありがとうございました。道中お気をつけて。我が国はあなた達のような法律、条例を守る旅行者を歓迎します。無事に旅行が出来ますようお祈り申し上げます。」

訳:「出国するときゃ、ケツをドアにぶつけないように気をつけな。」

英語テキスト:Punta Gorda
訳:長谷川 祐希  訳者プロフィール


The Long Haul to Livingston Guatemala

1999年5月21日 グアテマラ、リビングストーンへの長い道

ホンジュラス湾を横断して、リビングストーンまで約30キロ。2,3ドル払えばモーターボートでちょっとした船旅を楽しめるが、地平線で雷がゴロゴロ鳴る夜にカヤックで横断となると、楽しむどころか頭には暗い考えしか浮かんでこない。税関職員の言葉と、出発の夜レストランで聞いた悲惨な旅行者の話が、重く私たちの上にのしかかってきた。

私たちは出発前に、レストランのコンクリートのデッキで一眠りした。このレストランのオーナー、ジョンは、私たちが休む前にこんな話を聞かせてくれた。去年、ちょうどハリケーンの後に、スウェーデン人が3人ここへ来た。彼らはセーリングボートを買い、ホンジュラスとカリブ海を通って、南へ行こうとしていたらしい。このレストランへ寄ったのは、その出発の前日だった。ジョンは、ハリケーンのあとに飲み水や生活必需品、食糧の積んであるボートでホンジュラスへ向かえば、嵐で物を失い自暴自棄になっている人々の一番のターゲットになると忠告した。が、その三人組は自信たっぷりで、ジョンの忠告にも耳を貸さなかった。数週間後、調査書を基に、例の三人組の行方を追っていたスウェーデン大使館員がやってきた。ジョンのレストランを最後に、彼らの消息がわからなくなったらしい。(ここでクレジットカードを使っていたのが最後の手掛かりだった。)ボートはホンジュラスの海岸に流されているところを発見されたが、船内にパスポート、ビザ、現金、生活用品、遺体はなかった。それ以来、彼ら3人を見た人はいない。・・・同じ様なコースを通る前に聞く話ではなかった。

ジョンとベリーズ人の細君が11時に店を閉めてから、スコールが降りだし、更に心細くなる。私は寝返りを打ちながら何とか少しでも寝ようとしていた。ジョンフィリップはカヤックをチェックしたり、突然の下痢に襲われたりで、寝たり起きたりしていた。私たちは雨にぬれてフラフラになりながら荷造りして、午前3時には出国スタンプをもらうために警察署にいた。(税関にいたヤツは、警察署にスタンプを預けておくから、直接警察署まで出向いて説明しろと私達に言った。が、ヤツはただ、事をややこしくしたいが為にそんなことを言い出したにちがいない。)
そして、そこには税関職員もスタンプもなく、私たちの状況を全く知らない2人の警察官がいただけだった。しかし彼らはとても好意的で、そのうちの一人は税関まで行って職員を連れてきてくれた。ここで4時まで足止めを食らう。

一面の曇り空の中、地平線にはゴロゴロと雷が鳴っていた。暗くて、たった6m先にいるジョンフィリップさえ見えなかった。私たちはコンパスとGPS(Global positioning system;地球位置発見システム)を頼りにパドルし、空が明るくなるまでの1時間は、互いを見失わないようにパドルストロークの音を注意深く聞いていた。
夜明けまでの3時間弱で12kmもパドルできなかった。海流が悪かったのだ。その上ジョンフィリップの腹もゴロゴロいいだし、彼は2回カヤックの横から用を足さなくてはならなかった。
嵐はすぐに去り、グアテマラの海岸が現れた。たった30km先だ。地形はベリーズのそれとは全く違って見えた。深緑の低い山々が霧の向こうから現れた。それを見るとやる気になって、再び一生懸命パドルする。

8時にはもうすでに気温は高く、海岸はいくら漕いでも同じ距離の所にあるようだった。1時間は自分が進んでいる気が全然せず、精神的にきつかった。血糖も使い果たし、エネルギー値は下がり、背中の筋肉は休業寸前のところまで来ていた。ジョンフィリップは胃痙攣のために上半身をねじることができなかった。一ヶ月の陸の生活は私たちの体をすっかりヤワにしてしまったようだ。

10時前にデュース川河口付近の海岸に上がった。5分の休憩時間のあと、リビングストーンの主要都市へ向かってパドルする。入国審査をうけなくてはならないからだ。埠頭に着くとガリフナ族とラテン系の人々が集まってきて、私たちの荷物をのせたカヤックに驚き、スペイン語で山のように質問をしてきた。
全てがプンタゴルダよりもずっと活気がある。人々は道案内や情報提供をかってでてくれ、そのあと金をせびるようなこともなかった。再びスペイン語圏の国へ戻ってきて、ホッとする。
川岸にあるゲストハウス兼ピザ屋、“リゴレット”で休む。ここは明るいメキシコ人の女性と、アメリカ人の夫の2人が経営している。信じられないようなうまさのピザを平らげたあと、ハンモックに倒れ込むように横になった。

どんな過酷な忍耐力テストも、うまい飯と休息の後では大したことではなかったような気になるらしい。他の滞在客が湾横断はどうだったかと聞いてきた時、思っていたほど悪くなかったよ、と答えた自分にビックリした。

英語テキスト:The Long Haul to Livingston Guatemala
訳:長谷川 祐希  訳者プロフィール

Luke Shullenberger  ルーク・シュレンバーガー

更新日:1999年11月1日

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